「rikipro(リキプロ)」が誕生する根元を辿ればWJプロレスの存在が見えてきます。ここではWJプロレスがどのような経緯でできたのか、そこからリキプロへどうつながったのかというのを説明したいと思います。

★WJプロレスの旗揚げについて

WJプロレスの元を辿れば新日本プロレスです。当時長州力が新日本プロレスの現場監督を取り仕切っていました。

しかし、全日本プロレスに数名の選手を引き抜かれた責任を取らされる形となり、長州力は監督を下される形となりました。

ちなみにこの時引き抜かれた選手で有名どころは武藤敬司です(お笑い芸人がよくウィ〜ってモノマネをするヒゲのおじさん)。

そして同時期に当時宣伝部長だった永島も退社し、合流した形でファイティング・オブ・ワールド・ジャパン(以下WJプロレス)を設立しました。

長州力はWJプロレスの旗揚げ時に「プロレス界のど真ん中を行く」と意気込んでいました。3月1日に横浜アリーナで旗揚げしたのですが、同日に日本武道館でプロレスリングノアのビックマッチ、有明コロシアムでkー1が開催されるなど最悪な日程で大コケとなりました。プロレス

さらに旗揚げ興行は散々なもので、長州力対天龍源一郎が6戦やる予定が3戦鹿できなかったり、参戦予定だった大仁田厚も当時議員でイラク戦争により、議員会館での待機により欠場となるなど初っ端からコケまくりでした。

★WJプロレスの崩壊について

WJプロレスは計画性の乏しさと不慮のトラブルにより崩壊の一途を辿っていました。旗揚げ興行で大コケしたことは序の口、練習中にジャイアント落合の死去、観客動員の苦戦、収入不足による経営状況悪化、ギャラ未払いなどがたたり相次いで退団者が出てしまいました。

総合格闘イベントxー1を開催するもレベルが低すぎて酷評。WJプロレスはやることなすこと全てにおいてダメで客離れが進みました。

WJプロレスは一度発表された興行が中止になるという事態が続発し、経営という面においては最悪としか言いようがありませんでした。

一番話題に上がったのが、後楽園ホールを抑えていると思って大会を行うといったが、実際は後楽園ホールを借り切れていなくて大会を開くことができないという事態。何とも体たらくな有様でした。

ちなみに同日はボクシングが行われた模様。このダメっぷりは一般企業でも反面教師にできるのではないでしょうか。

★WJからリキプロへの移行について
上記を読むともう「WJプロレス破綻だろ」と思うことでしょう。そうです。こんな状態で立て直しもクソもありません。2004年にWJプロレスは「rikipro(リキプロ)」にスライドするような形で活動停止することになりました。

もちろんこの時点では未来のことなので断定はできませんが、この状況でできたリキプロが成功するかどうかなんて分かりきっていますよね。ともかくWJプロレスの精神はリキプロに託される形となったのですが……。

プロレスの世界は派生したり、枝分かれしたり、かと思えばまたくっついたりが繰り返されます。リキプロに所属していた長州力も新日本プロレスに復帰したわけですが……。ここでは、その複雑極まりない動きを簡単にまとめてみました。

★そもそもプロレス団体がよく分からない

まず、簡単にプロレス団体というものをおさらいしてみましょう。

日本のプロレスは元をただせば力道山がデビューした1951年に遡ります。日本人女性を初のレスラーはソラキチ・マツダですが、ややこしくなるのでとりあえずプロレスの父=力道山だと思ってください。

当時柔道がGHQに禁止されていたことにより、簡単に言えば柔道家が取り込まれるような形となりプロレスが急激に発展しました。そこから野球、相撲、プロレスが人気のスポーツとなったわけです。

1953年に力道山が日本プロレスを旗揚げしました。当時プロレスと言ったら日本プロレス一本でしたが、力道山の死去後東京プロレスと国際プロレスが発足。その後新日本プロレス、全日本プロレスができます。

ちなみに新日本プロレスを起こしたのがアントニオ猪木、全日本プロレスを起こしたのがジャイアント馬場です。逆にその二人を失った日本プロレスは崩壊してしまいます。

その後1984年にUWFが発足。ショー的要素からして格闘技要素を追求するようになりました。

1988年に大仁田厚がFMWを立ち上げインディー団体が乱立するように。この頃からプロレス人気の陰りが見られるようになったと言っても過言ではないでしょう。

★長州力の不可解な動き

長州力はアントニオ猪木の弟子として台頭しました。

新日本プロレスのエース格となった長州力は新日本プロレスの現場監督になります。しかし主力が全日本プロレスに引き抜かれたことにより事実上降格。新日本プロレスを退社しWJプロレスを立ち上げます。

WJプロレスは無計画さやイージーミスを連発し、すぐに経営悪化の一途をたどります。立て直しも聞かなくなり、所属選手は契約解除となりました。

そこから分離される形でリキプロが設立されるわけですが、リキプロも付け焼き刃といった形であまり上手くはいきませんでした。所属選手はいなくなり、リキプロは事実上長州力の個人事務所と化しました。それでもリキプロに所属しつつ新日本プロレスの現場監督に復帰するなど、長州力の存在感は重宝されていました。

★まだまだプロレス会を支えている長州力

もはや団体がグチャクチャになりすぎて収拾がつかなくなったプロレス界ですが、がむしゃらにやって人気を取り戻そうとしている感は強いです。一般企業で行ったら、元々働いていた会社から独立して上手くいかなかったけど、個人に実力があるから元の会社が「お前の力を貸してくれ」と言っているようなものですよね。この持ちつ持たれつといった精神は見習うべきなのではないかと思います。

リキプロ

リキプロでも新日本プロレスでもどちらでもいいから、自分が出来る範囲でプロレス界を支えるんだというメッセージ性が強い気がしてなりません。(あの滑舌の悪さと長州小力にモノマネをされているところを見ると考えすぎか?と思ってしまわないでもないですが……)。それでもみんなが見ていて飽きないキャラなので、まだまだ頑張って欲しいですね!

今ではリキプロに所属する唯一の人物長州力。ここでは彼の人柄やプロフィールについて簡単に紹介したいと思います。

プロレス好きではない人も、お笑い芸人の長州小力を通じて長州力を知っているなんていう人や、最近ではプロレスラーとしてではなく「滑舌の悪いおっちゃん」としてよく知られているかもしれませんね。

しかし長州力は、実はというかやはりというか、何気にすごいプロレスラーなんです!

★長州力を取り巻く環境

リキプロ

リキプロ所属の唯一のプロレスラー長州力は、リング内外で突っ込みどころ満載で何から語りつくせばいいのか迷うところです(笑)。

が、まず最初に挙げておきたいのは彼の国籍について。実は彼、韓国人です。韓国代表で柔道選手としてミュンヘンオリンピックに出場しています。その際日本代表だったジャンボ鶴田をライバル視していました。

長州力は大学は専修大学に通っていて、卒業と同時に新日本プロレスに入門。1974年にデビューしました。

元々日本名である吉田光雄でリングデビューを飾りましたが、出身である山口の旧名が長州であることと、力道山の力から長州力と名付けられました。

ちなみに命名したのはアントニオ猪木です。

長州力は実力もあったしテレビでの露出も多かったのですが、ルックス的な問題と地味な技、無骨なファイトスタイルによりあまり人気は出ませんでした。

それでもプロレス全盛期の実力レスラーで新日ブームを巻き起こします。

長州力の入場曲は平沢進が手がけたパワーホール。この曲を手がけた平沢は実は長州力について全く知らなかったようです。

★ジャパンプロレスを旗揚げしたり、いろいろやってみるが…

その後長州力はジャパンプロレスを旗揚げしましたが、すぐに新日本プロレスへカムバックします。

その後WJプロレスを立ち上げ、そのWJプロレスはうまくいかなくなり、リキプロを設立したりなど、忙しいのやら何がしたいのやらという形でした。

ちなみは今はリキプロに所属しながら新日本プロレスの現場監督を行うなど、籍だけはリキプロに置いているような状態です。

いろいろやるといえば、長州力はリング外でもいろいろやっちゃいます。

革命戦士として知られる長州力は、ビジネスリーダー養成講座である長州力革命塾を開きリーダーシップ論を説いています。しかし、自身がWJプロレスやリキプロを失敗させるなどしているため、自虐ネタを盛り込み盛況なようです。

★長州力の周辺を固めるレスラーたち

長州力はあらゆるレスラーとライバル関係、師弟関係、敵対関係を結び、コネクションの広さでは随一と言えるレスラーです。

まず師匠。長州力の師匠はアントニオ猪木です。もはや知らない人も多いかもしれませんね。プロレス人生で彼の左右を決めたのはアントニオ猪木が全てだったと言っても過言ではないかもしれません。

師匠という意味ではマサ斎藤もその一人です。猪木ほどとは言いませんがやはり長州力に影響を及ぼしています。

長州力の盟友と言ったら藤波です。長州と藤波は切っても切り離せない縁があり、とにかくいろいろある仲です。

柔道家だった頃からのライバルといえば、ジャンボ鶴田です。後に長州力の永遠のライバルの一人として位置付けられていると言ってもいいでしょう。

長州力と敵対している選手といえば西村修で、理由は私情優先ということが挙げられます。

長州力の弟子は佐々木健介(北斗晶の夫)です。一度長州力が引退した時にリングネームを襲名するのではという噂もあったが叶いませんでした。

長州力はその後大仁田厚の挑発に乗る形で再び現役復帰を果たしています。

このように、言ってみれば、長州力には前後左右有名プロレスラーが固めているのです。

★最近はバラエティでも活躍

長州力は、現在では滑舌悪い芸人(?)の一人として組み込まれています。もちろん芸人ではないのですが、もはやプロレスラーとしての彼の勇姿を知る年代はかなり高年齢なので、若者にとってはもはや芸人です。

自身のブログ「長州力公式ブログhttp://www.choshuriki.com/」でもメディアに出る旨を告知していますが、まるで芸人のような宣伝ぶりです。

★石井智宏の長い下積み生活

川崎市出身の石井智宏は天龍源一郎がいたWARに入門して1996年にプロレスデビューを果たします。今でこそ数々のニックネームがありファンから愛されている石井智宏ですが、下積み生活は長いものでした。

天龍の新日本プロレス参戦後は付き人として新日本プロレスの巡業に同行します。その期間出場機会はありませんでした。それでもトレーニングやスパーリングで日々自力をつけていきました。

1999年からフリーとして活動し、2002年にサイパンで合宿をしていた長州力の元へ単身で乗り込みます。そこで長州力の弟子として認められ、WJプロレスの選手となります。

石井

そこでいくつかのタイトルを取るもWJプロレスのずさんな経営により団体の存続が不可能になりました。今度は自分が団体を立ち上げるという形でリキプロに移籍することになりました。

★熱い男、石井智宏

石井智宏は何と言っても熱い男というのが似合うのでは無いでしょうか。

まず見た目。熱いです。芸人のクロちゃんのような出で立ちで胸を張っています。(それだけで熱いですね)。

さらに長州力に弟子入りする際も単身で乗り込むなど行動も熱いです。プレイスタイルも天龍源一郎や長州力を見習ってなのか、パワーファイトが信条です。まさに愚直というか実直というか。とにかく熱いんですよ。

ニックネームも平成の突貫小僧、悪の切り込み隊長、NEVERに魂を吹き込んだ男などなど、捻りがない!逆に石井智宏に捻りを加えてインテリっぽさを一ミリでも出したら気持ちが悪い。それくらいどストレートといった熱さを持つ男が石井智宏です。

ちなみに学生時代は野球をやっていたようですが、彼がカーブやスライダーを投げられるかどうかは定かではありません。「男は黙ってストレート一本」と言って欲しいですね。

★石井はリキプロではどうなった?

結局WJプロレスを引き継いだ形となったリキプロも長続きはせず、所属選手も長州力以外はいなくなりました。

石井智宏の現在の所属はリキプロではなく新日本プロレスです。それでもまだ40歳。スポーツ選手という面で見ると歳ですが、プロレス界で見ればまだまだやれる!

芸人がプロレスラーのモノマネをして大受けをすることがあるので、ここは是非ともクロちゃんとコラボして漫才でもしてもらいたいものです(笑)。

強面ですが、リキプロを立ち上げた際には智宏会たるファンクラブを発足させ人気があった上、あの天龍と長州力の弟子ですよ!見てみたくはないですか?二人の後ろでめっちゃ滑舌よく話せば受けると思います!!

宇和野貴史はあまり知られていないプロレスラーではありますが、リキプロ発足時を支えた数少ないプロレスラーです。苦労してプロレス界に入り、リキプロではなくてはならない存在でした。 2008年に大阪IMPホールで引退するまでの活動をまとめてみました。

★宇和野貴史(うわのたかし)の高校、札幌南高校について

宇和野貴史は高校時代札幌南高校で柔道をしていて全国ベスト8に入った逸材でした。

宇和野

そして宇和野貴史が過ごした札幌南高校、かなりすごいです。

まず分かりやすく偏差値がすごい。72もあります。北海道で1、2を争うほどの進学校です。プロレスラーで勉強も出来るってすごいですね!

その札幌南高校にはどんな先輩がいたかというと、まずは岩田聡です。岩田聡が誰かしらなくてもピンボールといったら分かりますかね?あの開発者です。そして星のカービーのプロデューサーでもあり任天堂の元社長です。

他に政治家も多数輩出していて、苫米地義三・元内閣官房長官などがいます。

札幌南高校は全国高等学校クイズ選手権で優勝したり、甲子園出場したりなど文武両道でもあります。そんな超進学校にいた宇和野貴史はまさに頭の切れる力もちと言ってもいいでしょう。

★簡単にプロレスラーになれたわけではなかった

超進学校、柔道で全国大会ベスト8。そんな宇和野貴史でしたが簡単にプロレスラーになれたわけではありませんでした。大学推薦の道も用意されたのですが、それを断って新日本プロレスの入門テストを受けます。しかしプロの世界は甘くなく、不合格に。

その後1998年にマイナー団体であるIWAジャパンでプロレスデビューを飾ることになります。

それでもプロレス一本で食べていくことはできず、アルバイトをしながら生計を立てていました。

引退も考えていたそうですが、WJプロレスが選手募集しているということを知り、その場では引退しませんでした。そして長州力に拾われる形となりWJプロレスに移籍することができました。

しかし移籍先のWJプロレスは無計画経営だったためすぐに団体の存続が危ぶまれました。長州力を始めとするWJプロレスでともに汗を流した石井智宏智宏、和田城功らとともにリキプロの設立に参加しました。

★旗揚げした先のリキプロでは…

リキプロもそう長くは続く団体ではありませんでした。現在も団体としては存在するものの、実質的には長州力の個人事務所状態で他に選手はいません。宇和野貴史は2008年に大阪IMPホールで引退しました。

★宇和野貴史のプロレスラー人生

長くはなかったですが、宇和野貴史のプロレスラー人生について少し語りたいと思います。

宇和野貴史は184センチ、102キロと恵まれた体格と柔道をしていた経験を活かし、大技を使うのを得意としていました。得意技はジャーマン・スープレックスやドロップキックなどで、子供が見ても分かりやすい技です。

さらに大外刈りをアレンジした宇和野が開発した技がSTUです。この技なんと「札幌市、豊平区、宇和野」の略で全くなんのこっちゃ分からないネーミングです(笑)。でも宇和野は勉強ができたという予備知識を持ってこのネーミングセンスを知ると応援したくなりますよね(もう引退してしまいましたが…)。

前述していますが、宇和野貴史は2008年に大阪IMPホールで引退しました。

リキプロの数少ないプロレスラーであった和田城功(わだくによし)はアニマル浜口ジムを経て長州力がいたWJプロレスに入団。WJがリキプロにスライドするように移行した後に、和田も移行しました。 和田城功はまさに怪我との戦いの連続でした。そんな和田城功のプロレス人生についてまとめてみました。

★高校時代と在籍していた神奈川県立六ツ川高等学校について

和田城功は元々プロレスラーに憧れていたため、高校ではレスリングに没頭しました。六ツ川高校では神奈川県のレスリング68kg級で3回も優勝を果たし、国体にも出場する逸材でした。

ちなみにこの六ツ川高校は横浜市南区にあった県立高校でしたが、2008年に閉校しています。ランニングに力を入れている高校で体育ではよく走らせていたというエピソードがあります。

和田

またIT育成に力を入れていて、文部科学省からIT人材育成高校として指定されている全国十校のうちの一校でした。2008年にからは神奈川県立外語短期大学付属高等学校と合併し、神奈川県立横浜国際高等学校に改変されました。

★プロに入ってからはパッとした成績を残せなかった

高校ではレスリングで輝かしい成績を残す事が出来ましたが、プロになってからは残念ながらその力を発揮する事はあまり出来なかったと言わざるをえません。

和田城功はアニマル浜口ジムを経てWJプロレスに入団。その後WIプロレスがそのままリキプロとなる形になり、和田城功もリキプロのプロレスラーとなります。

しかしリキプロではプロレスラーとして所属しているものの、立ち位置はちゃんこ番でした。

リキプロが事実上消滅する形となってからは、新日本プロレスに移籍します。

2010年には腰と首のヘルニアに加え、膝の故障により引退することになってしまいました。

その後は横須賀市の鍼灸整骨院で勤務し、治療家を目指すことになります。さらにその後は浜口ジムのレスラー養成クラスのコーチとなり、後進の指導をするようになりました。

★怪我はしたが、やはりプロレスが好きだった

和田城功はまさに怪我との戦いの連続でした。

WJプロレスに入団してからもアマチュア時代に発症した怪我により、満足に試合をすることは出来ませんでした(実際行った試合は数試合程度です)。

それでもプロレスが好きで様々な形でプロレスに携わりたいという思いから、2015年には師匠である長州力に頼み込み、プロレスイベントで現役復帰を果たします。

ちなみにそのイベントマッチは筋ジストロフィー(簡単に言うと筋力が低下していく病気)・難病啓発イベントで、自分がケアをしている患者さんに対して自分の試合を見せてあげたいという思いから開催されたそうです。

その時の相手は松井大二郎。プロレスラーであり、総合格闘家でもあります。なんとPRIDEであのヴァンダレイ・シルバとも対戦した経歴があります(判定で負けましたが)。

それ以降は資格を活かし、メディカルトレーナー、セコンドとし多数のプロレス団体をサポートしています。

怪我との戦いはとてつもなくつらかったと思いますが、プロレスが好きで、プロレスに一生携わっていける人生がとても幸せに見えるのは、きっと私だけではないでしょう。

リキプロに所属していたレフェリー・保永昇男。彼は一流プロレスラーだったのに引退後はレフェリーの道に進むなど選手としてもレフェリーとしてもプロレスを盛り上げてきました。そんな保永昇男について紹介します。

★保永昇男は選手としても一流だった

レフェリーとしてリキプロに所属していた保永昇男ですが、元からレフェリーだったわけではありません。サッカーや野球と違って、その競技のプロになれなかったからレフェリーを目指すというのではなく、保永昇男はれっきとした一流のプロレスラーでした。

保永昇男ははじめ全日本プロレスの入門テストを受け不合格とされましたが、植木屋で働く傍ら体を鍛え続け、1979年に新日本プロレスに入門することができました。

保永

メキシコに武者修行へ渡った後、長州力らと共に全日本プロレスに参戦します。

1985年には寺西勇と共にアジアタッグ王者になります。この際寺西のパートナーはアニマル浜口だったのですが、負傷欠場したため急遽保永昇男がパートナーに指名されました。

保永昇男はジュニアヘビー級のヒール役という立ち位置を与えられ、獣神サンダー・ライガーと激闘を繰り広げるようになります。当時獣神サンダー・ライガーやサムライのマスクを剥ごうとしたことから、彼のマスク剝ぎは一つの必殺技とされています。

そして1991年にはトップ・オブ・ザ・スーパージュニアで獣神サンダー・ライガーを破り優勝しました!この試合はIWGPジュニアヘビー級王座決定戦も兼ねられていたため、そちらの王座も同時に取得します。

その後も幾度となく獣神サンダー・ライガーと激闘を繰り広げますが、1998年に引退。引退試合の相手も獣神サンダー・ライガーでした。

★レフェリーなのに人気があった!

引退後、保永昇男はレフェリーに転向します。と言っても単なるレフェリーではなく、やはりそこは元プロレスラーの血がさわぐのでしょう。リングで暴れるんですよ、彼は!

パキスタンに海外遠征に行った時にはレフェリー兼現役選手として行きましたし、ぎこちないジャッジを下すため観客からブーイングを受けたりしました。

ロープブレイクしているのに技をかけ続ける選手に対し、ストンピングを連発して選手を制した時には、レフェリーであるのにもかかわらず保永コールをされるなど、保永昇男はファンから最も愛されたレフェリーの一人と言っても過言ではないでしょう。

★保永昇男とリキプロとの関わり

そんな保永昇男は長州力と親交があったこともあり、2003年にWJプロレスに移籍。そして2004年にWJプロレスが崩壊したためリキプロへ移籍します。

保永昇男はレフェリーでも若手選手からしてみたら怖い人として知られていて、若手選手をレフェリーの立場で育成したり、相談役になったりしています。

リキプロが新日本プロレスに合流する形になったあとも、保永昇男はレフェリーや道場管理者として残留しています。経費削減のため、自らシャッターのペンキをしたりし、若手がやるようなことまでこなしていたと言います。

まさにプロレスが大好きなおっちゃんという感じがして好感が持てますよね。

保永昇男はプロレス界に大きく貢献している一人と言っていいでしょう!

★★★★★★★★★★

以上、プロレス好きでも実体をよく知る人が少ないであろう「rikipro(リキプロ)」についてまとめてみましたが、いかがだったでしょうか。

現在では長州力の個人事務所と化しているリキプロではありますが、プロレス史を語る上では短くとも点ではなく線として存在しています。

今後ますますわからなくなってしまう可能性がありますので、このサイトがプロレス史の中で「rikipro(リキプロ)」とは何かを調べようとしているどなたかの参考になればうれしく思います。

過去にリキプロに所属していた矢口壹琅。彼はちょっと特殊で異色のプロレスラーと言ってもいいでしょう。ここでは簡単に矢口壹琅について紹介したいと思います。

★矢口壹琅は音楽家?

矢口

まずちょっと面白い話をしましょう。矢口壹琅。「やぐちいちろう」と読めた人いますか?読めたとしたらよほどのプロレスファンか、漢字が強い人なのではないでしょうか。

しかしなぜか私のIPADでいちろうと打とうとしたら一郎の次に壹琅が予測変換で出たんです!パソコンでは出なかったのに…。

とまあそんな話はどうでもいいんです。とにかく矢口壹琅は「やぐちいちろう」と読んでください。

そしてこの矢口壹琅、はっきり言って異色中の異色です。史上最強のミュージシャンと言われているのですが、普通の音楽好きからしてみたら、

「誰だよそれ、知らねーよ」

となるでしょう。しかし、なんとバークリー音楽大学ジャズ作曲科卒が最終学歴なんです!アメリカの大学を出されてしまっては何も言えなくなってしまいますよね、日本人は……。ともかく、そんな訳だから音楽はできるはずです。

幼少時代プロレスラーを夢見た矢口壹琅は、高校時代に腰痛によりプロレスへの夢を断念してしまいます。それでも徐々にプロレスをやるようになり、オリエンタルプロレスでデビューすることができました。

★プロレスの経歴

矢口壹琅のプロレス人生と言ったら手数に特徴があります。手数というのは技を多岐にわたり繰り広げるという訳ではありません。東京プロレス、W

★ING、国際プロレス、西日本プロレス、大日本プロレス、IWAジャパンに参戦したり、多数のインディー団体での参戦を積極的に行いました。

矢口壹琅がインディー出身ということもあり、インディーに誇りを持っていました。

そんな中長州力はインディー批判をしていました。インディー批判する長州力に食ってかかり、矢口壹琅、安生洋二対長州力、天龍源一郎のカードが実現。この大戦後長州力に「メジャーもインディーも関係ない」と訂正させることとなったのです。

恐らくこの対戦が和解という実を結び、矢口壹琅とリキプロの間にパイプが結ばれ、数少ないリキプロの出身選手の中に矢口壹琅の永島刻まれることとなったのでしょう。

とはいえリキプロにガッツリ所属したという訳ではないので、矢口壹琅=リキプロと結びつく人はほとんどいないかもしれませんね。

★矢口壹琅といえば…

矢口壹琅といえば話題性のある対戦が多いです。有刺鉄線のリングで戦ったり、電流爆破デスマッチを数多く行っています。

特に電流爆破デスマッチの年間出場数の世界最多記録を持っています。

電流爆破デスマッチといえば大仁田厚だと思う人が多いでしょうが、この二人でよくやってますよ!

その他アフガニスタンで大仁田厚とシングルマッチを行ったり、貴闘力のデビュー戦の相手になったりと、見る人が見たら気持ちいいくらいのプロレス好きを表現してくれます。

リキプロに在籍していた下田大作は言ってみるならまさに風来坊。移籍、入団を繰り返して多くの団体に所属したプロレスラーです。そして双子の弟もプロレスラーをしています。ここではそんな下田大作についてまとめてみました。

★移籍暦の多い下田大作の入団、退団劇

下田大作は1998年にDDTに入門しプロレスデビューを果たしました。

下田大作は移籍が多く、2000年にはレッスル夢ファクトリーに移籍、その後大日本プロレスに入団するもすぐに退団、冬木軍プロモーションに入団しては退団、アパッチプロレス軍を入団し退団、リキプロへ移籍(リキプロ所属はしていましたがWJプロレスには所属しなかった)、リキプロで活躍した後フリーで活動することになります。

下田選手

2008年にはデビュー10周年記念興行「TURN ON THE LIGHT」を自主開催し成功を収めました。

しばらくフリー活動をしていましたが2011年には再びアパッチプロレス軍に正式入団し、今でも移籍はしていません。ようやく長く身を置く団体を見つけたと言ったところでしょうか。

入団、退団を繰り返す下田大作でしたが人柄が良かったのでしょう。常にどこかしらに入ることができ、長年プロレス人生を続けることができています。

獲得したタイトルにRCWインターナショナルヘビー級があります。大柄の体から繰り広げる迫力あるバックドロップ、ドラゴンスープレックスを得意技としていて観客を魅了しています。

★2009年の大晦日に大怪我

2009年の大晦日にはターザン山本がプロデュースした夢の架け橋2009〜大晦日プロレス際〜で左膝後十字靭帯断裂、前十字靭帯損傷、外側半月板断裂という大怪我を負ってしまいました。

そのため2010年1月31日に自身でプロデュースしていた大会を中止せざるをえなくなりました。

しかしそれでも引退することなく復帰を目指し、2011年アパッチプロレス軍新木場1stRING大会で約1年半ぶりに見事復帰を果たしました。

★双子の弟もプロレスラー

下田大作の双子の弟である不動力也、本名下田勇作(しもだゆうさく)もプロレスラーです。フドゥーという愛称があります。

下田勇作は下田大作同様DDTでデビュー、その後もレッスル夢ファクトリーなどを経てZEROーONEに転身しました。

リング入場の際にサッカーのROAD TO FRANCEのテーマ曲を使い、リング上で踊り観客を沸かせていました。

橋本真也からリングネームを黒毛和牛太(くろげわぎゅうた)と命名されてしまうこともありましたが、2004年に負けがこんだことから田中将斗から不動力也と改名するよう言い渡されます。ちなみに不動力也はファイトスタイルを不動のものとしろという意味らしいです。

2011年からはアパッチプロレス軍に参戦した後デモリッション軍へ加入。さらに退団し芸能プロダクション主催のシアタープロレス花鳥風月に入団、移籍。

現在はプロレスリングLANDS ENDに所属しています。

こう書いてみると、なんとも移籍の多い双子だなという印象ではありますが、双子で揃ってプロレスラーとして活躍しているなんてすごいことですよね。親は2倍心配かもしれませんが……。