★石井智宏の長い下積み生活

川崎市出身の石井智宏は天龍源一郎がいたWARに入門して1996年にプロレスデビューを果たします。今でこそ数々のニックネームがありファンから愛されている石井智宏ですが、下積み生活は長いものでした。

天龍の新日本プロレス参戦後は付き人として新日本プロレスの巡業に同行します。その期間出場機会はありませんでした。それでもトレーニングやスパーリングで日々自力をつけていきました。

1999年からフリーとして活動し、2002年にサイパンで合宿をしていた長州力の元へ単身で乗り込みます。そこで長州力の弟子として認められ、WJプロレスの選手となります。

石井

そこでいくつかのタイトルを取るもWJプロレスのずさんな経営により団体の存続が不可能になりました。今度は自分が団体を立ち上げるという形でリキプロに移籍することになりました。

★熱い男、石井智宏

石井智宏は何と言っても熱い男というのが似合うのでは無いでしょうか。

まず見た目。熱いです。芸人のクロちゃんのような出で立ちで胸を張っています。(それだけで熱いですね)。

さらに長州力に弟子入りする際も単身で乗り込むなど行動も熱いです。プレイスタイルも天龍源一郎や長州力を見習ってなのか、パワーファイトが信条です。まさに愚直というか実直というか。とにかく熱いんですよ。

ニックネームも平成の突貫小僧、悪の切り込み隊長、NEVERに魂を吹き込んだ男などなど、捻りがない!逆に石井智宏に捻りを加えてインテリっぽさを一ミリでも出したら気持ちが悪い。それくらいどストレートといった熱さを持つ男が石井智宏です。

ちなみに学生時代は野球をやっていたようですが、彼がカーブやスライダーを投げられるかどうかは定かではありません。「男は黙ってストレート一本」と言って欲しいですね。

★石井はリキプロではどうなった?

結局WJプロレスを引き継いだ形となったリキプロも長続きはせず、所属選手も長州力以外はいなくなりました。

石井智宏の現在の所属はリキプロではなく新日本プロレスです。それでもまだ40歳。スポーツ選手という面で見ると歳ですが、プロレス界で見ればまだまだやれる!

芸人がプロレスラーのモノマネをして大受けをすることがあるので、ここは是非ともクロちゃんとコラボして漫才でもしてもらいたいものです(笑)。

強面ですが、リキプロを立ち上げた際には智宏会たるファンクラブを発足させ人気があった上、あの天龍と長州力の弟子ですよ!見てみたくはないですか?二人の後ろでめっちゃ滑舌よく話せば受けると思います!!

宇和野貴史はあまり知られていないプロレスラーではありますが、リキプロ発足時を支えた数少ないプロレスラーです。苦労してプロレス界に入り、リキプロではなくてはならない存在でした。 2008年に大阪IMPホールで引退するまでの活動をまとめてみました。

★宇和野貴史(うわのたかし)の高校、札幌南高校について

宇和野貴史は高校時代札幌南高校で柔道をしていて全国ベスト8に入った逸材でした。

宇和野

そして宇和野貴史が過ごした札幌南高校、かなりすごいです。

まず分かりやすく偏差値がすごい。72もあります。北海道で1、2を争うほどの進学校です。プロレスラーで勉強も出来るってすごいですね!

その札幌南高校にはどんな先輩がいたかというと、まずは岩田聡です。岩田聡が誰かしらなくてもピンボールといったら分かりますかね?あの開発者です。そして星のカービーのプロデューサーでもあり任天堂の元社長です。

他に政治家も多数輩出していて、苫米地義三・元内閣官房長官などがいます。

札幌南高校は全国高等学校クイズ選手権で優勝したり、甲子園出場したりなど文武両道でもあります。そんな超進学校にいた宇和野貴史はまさに頭の切れる力もちと言ってもいいでしょう。

★簡単にプロレスラーになれたわけではなかった

超進学校、柔道で全国大会ベスト8。そんな宇和野貴史でしたが簡単にプロレスラーになれたわけではありませんでした。大学推薦の道も用意されたのですが、それを断って新日本プロレスの入門テストを受けます。しかしプロの世界は甘くなく、不合格に。

その後1998年にマイナー団体であるIWAジャパンでプロレスデビューを飾ることになります。

それでもプロレス一本で食べていくことはできず、アルバイトをしながら生計を立てていました。

引退も考えていたそうですが、WJプロレスが選手募集しているということを知り、その場では引退しませんでした。そして長州力に拾われる形となりWJプロレスに移籍することができました。

しかし移籍先のWJプロレスは無計画経営だったためすぐに団体の存続が危ぶまれました。長州力を始めとするWJプロレスでともに汗を流した石井智宏智宏、和田城功らとともにリキプロの設立に参加しました。

★旗揚げした先のリキプロでは…

リキプロもそう長くは続く団体ではありませんでした。現在も団体としては存在するものの、実質的には長州力の個人事務所状態で他に選手はいません。宇和野貴史は2008年に大阪IMPホールで引退しました。

★宇和野貴史のプロレスラー人生

長くはなかったですが、宇和野貴史のプロレスラー人生について少し語りたいと思います。

宇和野貴史は184センチ、102キロと恵まれた体格と柔道をしていた経験を活かし、大技を使うのを得意としていました。得意技はジャーマン・スープレックスやドロップキックなどで、子供が見ても分かりやすい技です。

さらに大外刈りをアレンジした宇和野が開発した技がSTUです。この技なんと「札幌市、豊平区、宇和野」の略で全くなんのこっちゃ分からないネーミングです(笑)。でも宇和野は勉強ができたという予備知識を持ってこのネーミングセンスを知ると応援したくなりますよね(もう引退してしまいましたが…)。

前述していますが、宇和野貴史は2008年に大阪IMPホールで引退しました。

リキプロの数少ないプロレスラーであった和田城功(わだくによし)はアニマル浜口ジムを経て長州力がいたWJプロレスに入団。WJがリキプロにスライドするように移行した後に、和田も移行しました。 和田城功はまさに怪我との戦いの連続でした。そんな和田城功のプロレス人生についてまとめてみました。

★高校時代と在籍していた神奈川県立六ツ川高等学校について

和田城功は元々プロレスラーに憧れていたため、高校ではレスリングに没頭しました。六ツ川高校では神奈川県のレスリング68kg級で3回も優勝を果たし、国体にも出場する逸材でした。

ちなみにこの六ツ川高校は横浜市南区にあった県立高校でしたが、2008年に閉校しています。ランニングに力を入れている高校で体育ではよく走らせていたというエピソードがあります。

和田

またIT育成に力を入れていて、文部科学省からIT人材育成高校として指定されている全国十校のうちの一校でした。2008年にからは神奈川県立外語短期大学付属高等学校と合併し、神奈川県立横浜国際高等学校に改変されました。

★プロに入ってからはパッとした成績を残せなかった

高校ではレスリングで輝かしい成績を残す事が出来ましたが、プロになってからは残念ながらその力を発揮する事はあまり出来なかったと言わざるをえません。

和田城功はアニマル浜口ジムを経てWJプロレスに入団。その後WIプロレスがそのままリキプロとなる形になり、和田城功もリキプロのプロレスラーとなります。

しかしリキプロではプロレスラーとして所属しているものの、立ち位置はちゃんこ番でした。

リキプロが事実上消滅する形となってからは、新日本プロレスに移籍します。

2010年には腰と首のヘルニアに加え、膝の故障により引退することになってしまいました。

その後は横須賀市の鍼灸整骨院で勤務し、治療家を目指すことになります。さらにその後は浜口ジムのレスラー養成クラスのコーチとなり、後進の指導をするようになりました。

★怪我はしたが、やはりプロレスが好きだった

和田城功はまさに怪我との戦いの連続でした。

WJプロレスに入団してからもアマチュア時代に発症した怪我により、満足に試合をすることは出来ませんでした(実際行った試合は数試合程度です)。

それでもプロレスが好きで様々な形でプロレスに携わりたいという思いから、2015年には師匠である長州力に頼み込み、プロレスイベントで現役復帰を果たします。

ちなみにそのイベントマッチは筋ジストロフィー(簡単に言うと筋力が低下していく病気)・難病啓発イベントで、自分がケアをしている患者さんに対して自分の試合を見せてあげたいという思いから開催されたそうです。

その時の相手は松井大二郎。プロレスラーであり、総合格闘家でもあります。なんとPRIDEであのヴァンダレイ・シルバとも対戦した経歴があります(判定で負けましたが)。

それ以降は資格を活かし、メディカルトレーナー、セコンドとし多数のプロレス団体をサポートしています。

怪我との戦いはとてつもなくつらかったと思いますが、プロレスが好きで、プロレスに一生携わっていける人生がとても幸せに見えるのは、きっと私だけではないでしょう。

リキプロに所属していたレフェリー・保永昇男。彼は一流プロレスラーだったのに引退後はレフェリーの道に進むなど選手としてもレフェリーとしてもプロレスを盛り上げてきました。そんな保永昇男について紹介します。

★保永昇男は選手としても一流だった

レフェリーとしてリキプロに所属していた保永昇男ですが、元からレフェリーだったわけではありません。サッカーや野球と違って、その競技のプロになれなかったからレフェリーを目指すというのではなく、保永昇男はれっきとした一流のプロレスラーでした。

保永昇男ははじめ全日本プロレスの入門テストを受け不合格とされましたが、植木屋で働く傍ら体を鍛え続け、1979年に新日本プロレスに入門することができました。

保永

メキシコに武者修行へ渡った後、長州力らと共に全日本プロレスに参戦します。

1985年には寺西勇と共にアジアタッグ王者になります。この際寺西のパートナーはアニマル浜口だったのですが、負傷欠場したため急遽保永昇男がパートナーに指名されました。

保永昇男はジュニアヘビー級のヒール役という立ち位置を与えられ、獣神サンダー・ライガーと激闘を繰り広げるようになります。当時獣神サンダー・ライガーやサムライのマスクを剥ごうとしたことから、彼のマスク剝ぎは一つの必殺技とされています。

そして1991年にはトップ・オブ・ザ・スーパージュニアで獣神サンダー・ライガーを破り優勝しました!この試合はIWGPジュニアヘビー級王座決定戦も兼ねられていたため、そちらの王座も同時に取得します。

その後も幾度となく獣神サンダー・ライガーと激闘を繰り広げますが、1998年に引退。引退試合の相手も獣神サンダー・ライガーでした。

★レフェリーなのに人気があった!

引退後、保永昇男はレフェリーに転向します。と言っても単なるレフェリーではなく、やはりそこは元プロレスラーの血がさわぐのでしょう。リングで暴れるんですよ、彼は!

パキスタンに海外遠征に行った時にはレフェリー兼現役選手として行きましたし、ぎこちないジャッジを下すため観客からブーイングを受けたりしました。

ロープブレイクしているのに技をかけ続ける選手に対し、ストンピングを連発して選手を制した時には、レフェリーであるのにもかかわらず保永コールをされるなど、保永昇男はファンから最も愛されたレフェリーの一人と言っても過言ではないでしょう。

★保永昇男とリキプロとの関わり

そんな保永昇男は長州力と親交があったこともあり、2003年にWJプロレスに移籍。そして2004年にWJプロレスが崩壊したためリキプロへ移籍します。

保永昇男はレフェリーでも若手選手からしてみたら怖い人として知られていて、若手選手をレフェリーの立場で育成したり、相談役になったりしています。

リキプロが新日本プロレスに合流する形になったあとも、保永昇男はレフェリーや道場管理者として残留しています。経費削減のため、自らシャッターのペンキをしたりし、若手がやるようなことまでこなしていたと言います。

まさにプロレスが大好きなおっちゃんという感じがして好感が持てますよね。

保永昇男はプロレス界に大きく貢献している一人と言っていいでしょう!

★★★★★★★★★★

以上、プロレス好きでも実体をよく知る人が少ないであろう「rikipro(リキプロ)」についてまとめてみましたが、いかがだったでしょうか。

現在では長州力の個人事務所と化しているリキプロではありますが、プロレス史を語る上では短くとも点ではなく線として存在しています。

今後ますますわからなくなってしまう可能性がありますので、このサイトがプロレス史の中で「rikipro(リキプロ)」とは何かを調べようとしているどなたかの参考になればうれしく思います。

過去にリキプロに所属していた矢口壹琅。彼はちょっと特殊で異色のプロレスラーと言ってもいいでしょう。ここでは簡単に矢口壹琅について紹介したいと思います。

★矢口壹琅は音楽家?

矢口

まずちょっと面白い話をしましょう。矢口壹琅。「やぐちいちろう」と読めた人いますか?読めたとしたらよほどのプロレスファンか、漢字が強い人なのではないでしょうか。

しかしなぜか私のIPADでいちろうと打とうとしたら一郎の次に壹琅が予測変換で出たんです!パソコンでは出なかったのに…。

とまあそんな話はどうでもいいんです。とにかく矢口壹琅は「やぐちいちろう」と読んでください。

そしてこの矢口壹琅、はっきり言って異色中の異色です。史上最強のミュージシャンと言われているのですが、普通の音楽好きからしてみたら、

「誰だよそれ、知らねーよ」

となるでしょう。しかし、なんとバークリー音楽大学ジャズ作曲科卒が最終学歴なんです!アメリカの大学を出されてしまっては何も言えなくなってしまいますよね、日本人は……。ともかく、そんな訳だから音楽はできるはずです。

幼少時代プロレスラーを夢見た矢口壹琅は、高校時代に腰痛によりプロレスへの夢を断念してしまいます。それでも徐々にプロレスをやるようになり、オリエンタルプロレスでデビューすることができました。

★プロレスの経歴

矢口壹琅のプロレス人生と言ったら手数に特徴があります。手数というのは技を多岐にわたり繰り広げるという訳ではありません。東京プロレス、W

★ING、国際プロレス、西日本プロレス、大日本プロレス、IWAジャパンに参戦したり、多数のインディー団体での参戦を積極的に行いました。

矢口壹琅がインディー出身ということもあり、インディーに誇りを持っていました。

そんな中長州力はインディー批判をしていました。インディー批判する長州力に食ってかかり、矢口壹琅、安生洋二対長州力、天龍源一郎のカードが実現。この大戦後長州力に「メジャーもインディーも関係ない」と訂正させることとなったのです。

恐らくこの対戦が和解という実を結び、矢口壹琅とリキプロの間にパイプが結ばれ、数少ないリキプロの出身選手の中に矢口壹琅の永島刻まれることとなったのでしょう。

とはいえリキプロにガッツリ所属したという訳ではないので、矢口壹琅=リキプロと結びつく人はほとんどいないかもしれませんね。

★矢口壹琅といえば…

矢口壹琅といえば話題性のある対戦が多いです。有刺鉄線のリングで戦ったり、電流爆破デスマッチを数多く行っています。

特に電流爆破デスマッチの年間出場数の世界最多記録を持っています。

電流爆破デスマッチといえば大仁田厚だと思う人が多いでしょうが、この二人でよくやってますよ!

その他アフガニスタンで大仁田厚とシングルマッチを行ったり、貴闘力のデビュー戦の相手になったりと、見る人が見たら気持ちいいくらいのプロレス好きを表現してくれます。

リキプロに在籍していた下田大作は言ってみるならまさに風来坊。移籍、入団を繰り返して多くの団体に所属したプロレスラーです。そして双子の弟もプロレスラーをしています。ここではそんな下田大作についてまとめてみました。

★移籍暦の多い下田大作の入団、退団劇

下田大作は1998年にDDTに入門しプロレスデビューを果たしました。

下田大作は移籍が多く、2000年にはレッスル夢ファクトリーに移籍、その後大日本プロレスに入団するもすぐに退団、冬木軍プロモーションに入団しては退団、アパッチプロレス軍を入団し退団、リキプロへ移籍(リキプロ所属はしていましたがWJプロレスには所属しなかった)、リキプロで活躍した後フリーで活動することになります。

下田選手

2008年にはデビュー10周年記念興行「TURN ON THE LIGHT」を自主開催し成功を収めました。

しばらくフリー活動をしていましたが2011年には再びアパッチプロレス軍に正式入団し、今でも移籍はしていません。ようやく長く身を置く団体を見つけたと言ったところでしょうか。

入団、退団を繰り返す下田大作でしたが人柄が良かったのでしょう。常にどこかしらに入ることができ、長年プロレス人生を続けることができています。

獲得したタイトルにRCWインターナショナルヘビー級があります。大柄の体から繰り広げる迫力あるバックドロップ、ドラゴンスープレックスを得意技としていて観客を魅了しています。

★2009年の大晦日に大怪我

2009年の大晦日にはターザン山本がプロデュースした夢の架け橋2009〜大晦日プロレス際〜で左膝後十字靭帯断裂、前十字靭帯損傷、外側半月板断裂という大怪我を負ってしまいました。

そのため2010年1月31日に自身でプロデュースしていた大会を中止せざるをえなくなりました。

しかしそれでも引退することなく復帰を目指し、2011年アパッチプロレス軍新木場1stRING大会で約1年半ぶりに見事復帰を果たしました。

★双子の弟もプロレスラー

下田大作の双子の弟である不動力也、本名下田勇作(しもだゆうさく)もプロレスラーです。フドゥーという愛称があります。

下田勇作は下田大作同様DDTでデビュー、その後もレッスル夢ファクトリーなどを経てZEROーONEに転身しました。

リング入場の際にサッカーのROAD TO FRANCEのテーマ曲を使い、リング上で踊り観客を沸かせていました。

橋本真也からリングネームを黒毛和牛太(くろげわぎゅうた)と命名されてしまうこともありましたが、2004年に負けがこんだことから田中将斗から不動力也と改名するよう言い渡されます。ちなみに不動力也はファイトスタイルを不動のものとしろという意味らしいです。

2011年からはアパッチプロレス軍に参戦した後デモリッション軍へ加入。さらに退団し芸能プロダクション主催のシアタープロレス花鳥風月に入団、移籍。

現在はプロレスリングLANDS ENDに所属しています。

こう書いてみると、なんとも移籍の多い双子だなという印象ではありますが、双子で揃ってプロレスラーとして活躍しているなんてすごいことですよね。親は2倍心配かもしれませんが……。