「rikipro(リキプロ)」が誕生する根元を辿ればWJプロレスの存在が見えてきます。ここではWJプロレスがどのような経緯でできたのか、そこからリキプロへどうつながったのかというのを説明したいと思います。
★WJプロレスの旗揚げについて
WJプロレスの元を辿れば新日本プロレスです。当時長州力が新日本プロレスの現場監督を取り仕切っていました。
しかし、全日本プロレスに数名の選手を引き抜かれた責任を取らされる形となり、長州力は監督を下される形となりました。
ちなみにこの時引き抜かれた選手で有名どころは武藤敬司です(お笑い芸人がよくウィ〜ってモノマネをするヒゲのおじさん)。
そして同時期に当時宣伝部長だった永島も退社し、合流した形でファイティング・オブ・ワールド・ジャパン(以下WJプロレス)を設立しました。
長州力はWJプロレスの旗揚げ時に「プロレス界のど真ん中を行く」と意気込んでいました。3月1日に横浜アリーナで旗揚げしたのですが、同日に日本武道館でプロレスリングノアのビックマッチ、有明コロシアムでkー1が開催されるなど最悪な日程で大コケとなりました。
さらに旗揚げ興行は散々なもので、長州力対天龍源一郎が6戦やる予定が3戦鹿できなかったり、参戦予定だった大仁田厚も当時議員でイラク戦争により、議員会館での待機により欠場となるなど初っ端からコケまくりでした。
★WJプロレスの崩壊について
WJプロレスは計画性の乏しさと不慮のトラブルにより崩壊の一途を辿っていました。旗揚げ興行で大コケしたことは序の口、練習中にジャイアント落合の死去、観客動員の苦戦、収入不足による経営状況悪化、ギャラ未払いなどがたたり相次いで退団者が出てしまいました。
総合格闘イベントxー1を開催するもレベルが低すぎて酷評。WJプロレスはやることなすこと全てにおいてダメで客離れが進みました。
WJプロレスは一度発表された興行が中止になるという事態が続発し、経営という面においては最悪としか言いようがありませんでした。
一番話題に上がったのが、後楽園ホールを抑えていると思って大会を行うといったが、実際は後楽園ホールを借り切れていなくて大会を開くことができないという事態。何とも体たらくな有様でした。
ちなみに同日はボクシングが行われた模様。このダメっぷりは一般企業でも反面教師にできるのではないでしょうか。
★WJからリキプロへの移行について
上記を読むともう「WJプロレス破綻だろ」と思うことでしょう。そうです。こんな状態で立て直しもクソもありません。2004年にWJプロレスは「rikipro(リキプロ)」にスライドするような形で活動停止することになりました。
もちろんこの時点では未来のことなので断定はできませんが、この状況でできたリキプロが成功するかどうかなんて分かりきっていますよね。ともかくWJプロレスの精神はリキプロに託される形となったのですが……。